2009年 11月 12日
さて、7日、舞台裏見学のあとで見たのが「芦屋道満大内鑑(あしやどうまん おおうちかがみ)」。大内の段、加茂館の段、保名(やすな)物狂(ものぐるい)の段、葛の葉子別れの段、蘭菊(らんぎく)の乱れの段、という5段から成るお芝居でした。
このうち、保名物狂の段は清元の舞踊としても有名で、歌舞伎の舞台で見たことがあります。「葛の葉子別れの段」も、歌舞伎でときどき「葛の葉」という演目名で上演されるので、私は三度、見たことがあります。そもそも高校生の頃、初めて歌舞伎に感銘を受けたのが「勧進帳」と「葛の葉」だったのです。歌舞伎ではのちほど紹介する歌を、葛の葉を演じる役者さんが左手に筆を持ったり、下から上へと書いたり、鏡文字を書いたり、最後には両腕に子どもを抱きかかえ、口に筆をくわえて障子に書くという、曲芸のようなシーンが見どころとなっています。
この二つ以外の段は、今回初めて見ました。
「保名物狂」では、安倍保名が、恋人だった榊の前が目の前で自害して死んでしまったことから、頭がおかしくなってしまい、野山をさまようのです。
そこへ現れたのが、榊の前とうり二つの女性、葛の葉姫。榊の前の実妹です。保名の忠実な家来、与勘平に、「榊の前にそっくりなあなたから、優しい言葉をかけてやってください」と頼まれて、葛の葉はおずおずと声をかけます。実はその前に、保名の姿を見たときから、心をひかれていたのです。
葛の葉姫の言葉で保名は正気に戻って、葛の葉姫が榊の前の妹であることを知り、好意を寄せます。ここへ、一匹の狐が逃げてきたので、保名はかくまってやります。狐を追って現れたのは、石川悪右衛門(この名前、ストレートに悪役ですね。「悪」というのは「強い」という意味かもしれませんが)。悪右衛門は以前から葛の葉姫に恋をしていて、強引に姫を連れ去ろうとします。
保名は与勘平に姫を託して館へ送るように言いつけ、悪右衛門やその手下たちと闘いますが、さんざんな目にあい、自害しようとします。するとそこへ、与勘平とともに去ったはずの葛の葉姫が現れて、保名の自害を思いとどまらせ、介抱します。二人は保名の故郷である阿倍野に向かうことにします。
ここからがクライマックス、葛の葉子別れの段です。保名と葛の葉が出会ってから6年がたち、今では5歳の男の子がいます。この子がのちの安倍晴明、というわけです。舞台は親子3人のわびた住まい。上手の部屋(内部は見えない)で葛の葉が機を織っています。
葛の葉姫の両親が、葛の葉姫を連れてやってきます。保名は留守のよう。機音がするので、そっとのぞくと、そこには葛の葉姫が。自分たち親子は6年ぶりに保名の住まいを探し当ててやってきたのに、なぜそこに娘とそっくり同じ女性がいるのか?
保名が帰ってきて、親子3人に会い、事情を聞いて機織り部屋をのぞくと、たしかに葛の葉がいます。いったいどういうこと? 保名は事実を究明すると約束して、3人を物置小屋に隠し、素知らぬ顔で家に入ります。
迎え出た葛の葉に、今日、出先でおまえの両親に出会った、夕方には訪ねてくるから、と話します。葛の葉は動揺したふうもなく、それなら用意をと、奥へ引っ込みます。保名はようすを見るため、機織り部屋に隠れます。
葛の葉は、紫色地の美しい着物に着替えて現れます。そう、私たちが舞台裏見学で拝見した、あの衣装です。
ここからが葛の葉のクドキ。葛の葉は、実は保名に助けられた狐だったのです。夫を愛し子どもまでなしたけれども、本物の葛の葉姫が現れた以上、自分はここにいるわけにはいかないと、我が子を抱き、別れの悲しみをせつせつと語ります。
この語りの最中に、紫色の衣装が突然、狐を表す白い衣装に変わります。
葛の葉は我が子への思いをあとに残しながら、姿を消します。
飛び出してきた保名と、葛の葉姫の一家。保名は「狐でもかまわない、これからも親子3人で一緒に暮らしたい」と嘆き、本物の葛の葉姫の父親は「そんな事情があると知っていたら、娘を連れて急に訪ねてきたりしなかったのに」と悔やみます。
ふとみると、障子に文字が。「恋しくばたづねきて見よ和泉なる(和泉にある) 信田(しのだ)の森のうらみ葛の葉」とつづられていました。
保名は子どもを連れて信田の森へ、去っていった葛の葉(狐)を探しにいくことにします。
最後の「蘭菊の乱れ」では、舞台一面に菊の花が咲き乱れています。葛の葉の涙が菊の花になったのだといいます。
舞台の中央に、狐の顔をして柿色の着物を身につけ、杖と黒い笠を手にした葛の葉。一瞬、後ろを向いて、次に前に向き直ったときには元の老女方の首(かしら)に変わっていました。岩陰に隠れたかと思うと、着物の上半身を脱いで、浅葱色に狐火を散らした着物に変わって現れます。
床は5丁6台というのでしょうか、太夫さんが6人、三味線弾きさんが5人、ずらりと並んで華やかです。葛の葉は咲き乱れる菊の花を踏み分けて、自分のふるさとへ帰っていきます。
長々とストーリーを書いてしまいました(といっても、後半だけですが)。「大内の段」と「加茂館の段」はテンポ良く話が展開し、悪者はやっつけられて幕をおろします。「加茂館の段」で榊の前が敵の罠にはめられて自害するので、そのあとの「保名物狂」の保名の心情が、今までになく、よく理解できました。「保名物狂」の後半の展開から、「葛の葉子別れ」の葛の葉の心情も、今までに見た歌舞伎の「葛の葉」よりも深く理解できました。今回、5段構成で見ることができたおかげで、このお芝居の神髄にある「情」がわかったのです。
sohoshitoさんが英大夫さんにお願いして取ってくださった席が、床のすぐ近くだったので、大夫さんの声や三味線の音色がびんびんと体に響いてきます。その心地よさはたまりませんでした。昔から文楽は「見るもの」ではなく「聴くもの」だといわれてきたそうです。その意味が、この日、初めてわかりました。
「葛の葉子別れの段」は最初は荘重な能の謡のような語りで始まり、切り場に入ると太夫さんの声から哀切な響きが伝わってきて、心にじーんとしみいってくるようでした。そして、葛の葉のクドキでは、その悲しみがどんどん心の中に広がっていって、全身が浄瑠璃に浸されていくような感覚を味わいました。
保名や葛の葉姫一家が真相を知ったとき、普通なら、妻が実は狐だった、孫が狐の子どもだったなどと知ったら、薄気味悪く思うのではないでしょうか。ところが誰もそんな気持ちは一切もたず、狐の心情に共感し、同情するのです。それが不自然に感じられないのは、この段を受け持った英大夫さんと嶋大夫さんの語りが素晴らしくて、三味線弾きさんも素晴らしく、葛の葉(狐)を遣った文雀さんがまた、素晴らしかったからだと思います。
自分たちとは異なる世界に住むはずの狐の心情に共感できる人たち。私はそのところにも感動を覚えました。
住大夫さんが教育テレビの「日本の伝統芸能」に出演されたとき、話しておられたことを思い出しました。文楽は「情」を描くものであり、太夫の仕事はいかに「情」をお客さんに伝えるかというところにあること。文楽は江戸時代に生まれた芸能なので、演目の内容は、一見、古めかしい忠義や孝行の世界であるけれども、「情」というものはいつの時代にも変わらないものだから、現代の観客にも楽しんでもらえるのだということ。このお話が、この日、しみじみと納得できました。
文楽は、歌舞伎に比べると地味なものだと今まで思いこんでいたのですが、全然違っていました。全身の感覚で「情」の世界に浸りきる心地よさ。「子別れ」の感動が「蘭菊の乱れ」で切なくも華やかに盛り上がって終わる、構成の巧みさ。舞台の幕が下りたとき、私は感動と興奮で体が震えるような思いを味わっていました。
長年、文楽を見続けてきた私ですが、今までいったい、何を観て、何を聴いてきたんだろう、と自問自答してしまいました。私にとってこの日は、記念すべき「文楽再発見の日」となりました。
このうち、保名物狂の段は清元の舞踊としても有名で、歌舞伎の舞台で見たことがあります。「葛の葉子別れの段」も、歌舞伎でときどき「葛の葉」という演目名で上演されるので、私は三度、見たことがあります。そもそも高校生の頃、初めて歌舞伎に感銘を受けたのが「勧進帳」と「葛の葉」だったのです。歌舞伎ではのちほど紹介する歌を、葛の葉を演じる役者さんが左手に筆を持ったり、下から上へと書いたり、鏡文字を書いたり、最後には両腕に子どもを抱きかかえ、口に筆をくわえて障子に書くという、曲芸のようなシーンが見どころとなっています。
この二つ以外の段は、今回初めて見ました。
「保名物狂」では、安倍保名が、恋人だった榊の前が目の前で自害して死んでしまったことから、頭がおかしくなってしまい、野山をさまようのです。
そこへ現れたのが、榊の前とうり二つの女性、葛の葉姫。榊の前の実妹です。保名の忠実な家来、与勘平に、「榊の前にそっくりなあなたから、優しい言葉をかけてやってください」と頼まれて、葛の葉はおずおずと声をかけます。実はその前に、保名の姿を見たときから、心をひかれていたのです。
葛の葉姫の言葉で保名は正気に戻って、葛の葉姫が榊の前の妹であることを知り、好意を寄せます。ここへ、一匹の狐が逃げてきたので、保名はかくまってやります。狐を追って現れたのは、石川悪右衛門(この名前、ストレートに悪役ですね。「悪」というのは「強い」という意味かもしれませんが)。悪右衛門は以前から葛の葉姫に恋をしていて、強引に姫を連れ去ろうとします。
保名は与勘平に姫を託して館へ送るように言いつけ、悪右衛門やその手下たちと闘いますが、さんざんな目にあい、自害しようとします。するとそこへ、与勘平とともに去ったはずの葛の葉姫が現れて、保名の自害を思いとどまらせ、介抱します。二人は保名の故郷である阿倍野に向かうことにします。
ここからがクライマックス、葛の葉子別れの段です。保名と葛の葉が出会ってから6年がたち、今では5歳の男の子がいます。この子がのちの安倍晴明、というわけです。舞台は親子3人のわびた住まい。上手の部屋(内部は見えない)で葛の葉が機を織っています。
葛の葉姫の両親が、葛の葉姫を連れてやってきます。保名は留守のよう。機音がするので、そっとのぞくと、そこには葛の葉姫が。自分たち親子は6年ぶりに保名の住まいを探し当ててやってきたのに、なぜそこに娘とそっくり同じ女性がいるのか?
保名が帰ってきて、親子3人に会い、事情を聞いて機織り部屋をのぞくと、たしかに葛の葉がいます。いったいどういうこと? 保名は事実を究明すると約束して、3人を物置小屋に隠し、素知らぬ顔で家に入ります。
迎え出た葛の葉に、今日、出先でおまえの両親に出会った、夕方には訪ねてくるから、と話します。葛の葉は動揺したふうもなく、それなら用意をと、奥へ引っ込みます。保名はようすを見るため、機織り部屋に隠れます。
葛の葉は、紫色地の美しい着物に着替えて現れます。そう、私たちが舞台裏見学で拝見した、あの衣装です。
ここからが葛の葉のクドキ。葛の葉は、実は保名に助けられた狐だったのです。夫を愛し子どもまでなしたけれども、本物の葛の葉姫が現れた以上、自分はここにいるわけにはいかないと、我が子を抱き、別れの悲しみをせつせつと語ります。
この語りの最中に、紫色の衣装が突然、狐を表す白い衣装に変わります。
葛の葉は我が子への思いをあとに残しながら、姿を消します。
飛び出してきた保名と、葛の葉姫の一家。保名は「狐でもかまわない、これからも親子3人で一緒に暮らしたい」と嘆き、本物の葛の葉姫の父親は「そんな事情があると知っていたら、娘を連れて急に訪ねてきたりしなかったのに」と悔やみます。
ふとみると、障子に文字が。「恋しくばたづねきて見よ和泉なる(和泉にある) 信田(しのだ)の森のうらみ葛の葉」とつづられていました。
保名は子どもを連れて信田の森へ、去っていった葛の葉(狐)を探しにいくことにします。
最後の「蘭菊の乱れ」では、舞台一面に菊の花が咲き乱れています。葛の葉の涙が菊の花になったのだといいます。
舞台の中央に、狐の顔をして柿色の着物を身につけ、杖と黒い笠を手にした葛の葉。一瞬、後ろを向いて、次に前に向き直ったときには元の老女方の首(かしら)に変わっていました。岩陰に隠れたかと思うと、着物の上半身を脱いで、浅葱色に狐火を散らした着物に変わって現れます。
床は5丁6台というのでしょうか、太夫さんが6人、三味線弾きさんが5人、ずらりと並んで華やかです。葛の葉は咲き乱れる菊の花を踏み分けて、自分のふるさとへ帰っていきます。
長々とストーリーを書いてしまいました(といっても、後半だけですが)。「大内の段」と「加茂館の段」はテンポ良く話が展開し、悪者はやっつけられて幕をおろします。「加茂館の段」で榊の前が敵の罠にはめられて自害するので、そのあとの「保名物狂」の保名の心情が、今までになく、よく理解できました。「保名物狂」の後半の展開から、「葛の葉子別れ」の葛の葉の心情も、今までに見た歌舞伎の「葛の葉」よりも深く理解できました。今回、5段構成で見ることができたおかげで、このお芝居の神髄にある「情」がわかったのです。
sohoshitoさんが英大夫さんにお願いして取ってくださった席が、床のすぐ近くだったので、大夫さんの声や三味線の音色がびんびんと体に響いてきます。その心地よさはたまりませんでした。昔から文楽は「見るもの」ではなく「聴くもの」だといわれてきたそうです。その意味が、この日、初めてわかりました。
「葛の葉子別れの段」は最初は荘重な能の謡のような語りで始まり、切り場に入ると太夫さんの声から哀切な響きが伝わってきて、心にじーんとしみいってくるようでした。そして、葛の葉のクドキでは、その悲しみがどんどん心の中に広がっていって、全身が浄瑠璃に浸されていくような感覚を味わいました。
保名や葛の葉姫一家が真相を知ったとき、普通なら、妻が実は狐だった、孫が狐の子どもだったなどと知ったら、薄気味悪く思うのではないでしょうか。ところが誰もそんな気持ちは一切もたず、狐の心情に共感し、同情するのです。それが不自然に感じられないのは、この段を受け持った英大夫さんと嶋大夫さんの語りが素晴らしくて、三味線弾きさんも素晴らしく、葛の葉(狐)を遣った文雀さんがまた、素晴らしかったからだと思います。
自分たちとは異なる世界に住むはずの狐の心情に共感できる人たち。私はそのところにも感動を覚えました。
住大夫さんが教育テレビの「日本の伝統芸能」に出演されたとき、話しておられたことを思い出しました。文楽は「情」を描くものであり、太夫の仕事はいかに「情」をお客さんに伝えるかというところにあること。文楽は江戸時代に生まれた芸能なので、演目の内容は、一見、古めかしい忠義や孝行の世界であるけれども、「情」というものはいつの時代にも変わらないものだから、現代の観客にも楽しんでもらえるのだということ。このお話が、この日、しみじみと納得できました。
文楽は、歌舞伎に比べると地味なものだと今まで思いこんでいたのですが、全然違っていました。全身の感覚で「情」の世界に浸りきる心地よさ。「子別れ」の感動が「蘭菊の乱れ」で切なくも華やかに盛り上がって終わる、構成の巧みさ。舞台の幕が下りたとき、私は感動と興奮で体が震えるような思いを味わっていました。
長年、文楽を見続けてきた私ですが、今までいったい、何を観て、何を聴いてきたんだろう、と自問自答してしまいました。私にとってこの日は、記念すべき「文楽再発見の日」となりました。


















































